土曜の晩に風呂を洗い、日曜の朝に洗濯機を回し、昼前には干すところまで済んでしまったので、やることがなくなったわしである。やることがない日というのは、理屈のうえではいちばん上等な日のはずであるが、どうもわしの場合、やることがない日にかぎって、ろくなことを思いつかん。
ところがである。
濡れた手を腿で拭きながら画面をのぞいたら、京都の七レースのところに、見慣れん数字が出ておった。
22。
目をこすった。いちど画面を閉じた。深く息を吸って、吐いて、もういちど開けて、もういちど見た。22である。桁が増えたわけでもなく、符号が付いておるわけでもなく、ただの22である。
腹のあたりが、すこし浮いた。お宝である。日曜の昼に、洗濯物を干し終わったばかりの男の家に、お宝が来たのである。
ところが、浮いたのは本当に一瞬で、次の瞬間には背中のほうが寒くなった。良いことがあったときに背中が寒くなるのは、わしの三十年来の癖であって、これはもう直らん。
わしは、20を超えた回を、ひとりで「ごちそうの日」と呼んでおる。誰に言ったこともないし、言う相手もおらん。それでも名前を付けておくと、来たときに取り逃がさんのである。
そこで気がついた。22である。超えてはおるが、超えた分は2しかない。ごちそうと呼ぶには、ずいぶん控えめなごちそうではないか。赤飯でいえば、小豆が三粒ほど多い、という程度のごちそうではないか。
いやまて。罠かもしれん。
去年の秋、二階の住人のところへ、屋根を無料で点検するという男が来たことがある。無料であるから断る理由がない。男は梯子をかけて上がっていき、下りてきたときには、瓦が三枚ほど割れておったそうである。割れておりますよ、と言われて、二階の住人は十何万か払ったらしい。無料で始まった話が、十何万で終わったのである。わしはその話を、階段の下で、手すりを拭く手を止めて聞いた。
無料で上がってきて、割って、直させる。構造がまったく同じではないか。
いや、同じではない。機械は瓦を割らん。機械はそもそも、わしが二階の下の住人であることも、財布に何が入っているかも知らん。知らん相手に罠は張れんのである。わしは筋道を立てて、そう考えた。立てた筋道は、まことに正しかった。
だけんどもしかし、
正しい筋道というのは、たいてい、その場に立っておるあいだは役に立たん。役に立つのは、だいぶあとになって、もう取り返しのつかんようになってからである。できんはずであるが、しかし、、、、と考えておるうちに、わしはもう上着の袖に腕を通しておった。
券売機の前では、三十秒ほど動かなんだ。五点である。単勝 8、複勝 8、馬連 3-8、ワイド 3-8、三連複 3-7-8。一点百円で、しめて五百円。これがわしの大勝負である。笑うところではない。笑うところでもあるが、わしは笑わん。五百円といえば、晩飯の何日ぶんかである。何日ぶんかと書いたのは、近ごろどれもこれも値が上がって、わしの頭のなかの値段がもう合わんからである。合わんものを無理に数えても、気が滅入るだけである。ともかく、その何日ぶんかを一レースに置くのだから、大勝負と呼んで差しつかえあるまい。
いや、正直に書くと、三十秒ではない。三十秒だと書いたのは、そのくらいで決めた男のほうが格好がつくからである。実際は、いちど列から外れて、壁の張り紙を上から下まで読み、また並び、また外れ、もういちど並んだ。前後の者には、何かの検査でもしておるように見えたであろう。
発走までに、まだ四十分あった。四十分というのは、券を買ってしまったあとには、ばかに長い。長いあいだ、わしは何を考えておったか。買い直しのことである。複勝を二枚にしておけばよかったのではないか、いや、複勝を厚くするのは勝負ではあるまい、しかし勝負というのは当てることであって、当てられんものに勝負という名を付けるのはただの言葉遊びではないか、と、そういうことを、券を握ったまま、立ったまま考えておった。買う前にやるべきことを、買ったあとにやるのが、わしの長年の順序である。
モニタのなかで、八番が首を上下させておった。ブルーミングローズという牝馬である。わしは馬を上から見たことがない。牧場におった頃も、いつも下から、あるいは横から見ておった。首の付け根のあたりの毛が、光を受けて一方向に寝るのが、いちばん良い。あのころ、厩務員のひとりが、馬の肩を手の甲で二度叩いてから引いていくのを、毎朝見ておった。意味は聞かなんだ。ああいうものは、聞くと、だいたいつまらん答えが返ってくる。
ゲートが開いて、前が速かった。八番は中団の外にいた。四角でそのまま外へ出した。出したところで、もう脚いろのほうが先に終わっておった。
九番が抜けた。二番が内で粘った。十番が外から届いた。
八番は五着であった。三番が六着、七番が七着。わしが印を付けた三頭が、順番どおりにきれいに並んで、掲示板の外に残っておった。あんなに素直に並ぶことがあるものかと、しばらく画面を見ておった。並び方だけでいえば、まことに見事であった。
敗軍の将、兵を語らず、という。
この場合、賭けた馬は、やはり兵であり、となると将は、当然わしである。将であるから、語らぬのが作法である。作法であるから、わしは黙るべきなのである。黙るべきなのであるが、黙る前にひとつ思い出してしまった。
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あの言葉は、そもそも誰が言ったのだったか。たしか、負けた側の男が、勝った側に向かって言ったのである。勝ったほうは韓信である。川を背にして陣を張った、あの韓信である。負けたほうは、負けた国の参謀であった男で、名前は出てこん。
韓信はその男を生け捕りにして、縄を解いて、座らせて、次はどこを攻めるべきかと尋ねた。男は、敗軍の将は兵を語らず、と断った。断ったのである。ところが韓信が重ねて頼むので、結局その男はしゃべった。しゃべったうえに、その策が当たって、攻められるはずだった国は、戦わずに降りてしまったらしい。
覚えておるのは、えらいからではない。むかし牧場の寮に、前の住人が置いていった文庫が何冊か残っておって、冬はほかに読むものが無かったのである。同じ頁を、何度も読んだ。
つまりあの言葉は、黙るための言葉ではないのである。語る前の、ひと呼吸である。語らずと言ってから語るのが作法なのであって、言わずに語るのは作法に外れる。そう考えると、わしはまず語らずと言い、そのうえで語らねばならん。
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ついでに言うと、もとの文句は「兵を語らず」ではなかった気がする。「勇を語るべからず」であったような気がする。うろ覚えである。だが、もしそうなら、負けた将に資格が無いのは、兵の並べ方のほうではなく、勇気のほうである。これはわしには都合が悪い。五百円に勇を持ち出すのは、はじめから無理があるし、持ち出したところで誰も困らん。よってわしは、兵のほうを語ることにする。都合のよい言い方を採るのは、わしの三十年来の方針である。そのせいで、いまだにこのアパートにおる。
なお、勝ったほうの韓信も、だいぶあとになって、ろくな終わり方をしておらん。勝ってそれなのだから、五着で発泡酒というのは、まだ軽いほうである。
では将として兵を語る。兵は、言われたとおりに並んだ。八、三、七の順である。崩れもせず、入れ替わりもせず、そのまま並んだ。並べたのはわしではない。並べたのは機械で、順番を信じて金を出したのがわしである。これを将と呼ぶのかどうかは、知らん。
二階の住人の瓦のことを、そこで思い出した。あの男は少なくとも、瓦を割ってから直させている。割る手間をかけておる。わしのほうは、誰にも何もされておらん。自分で梯子をかけて、自分で上がって、自分で下りてきただけである。
罠ではなかった。来たのは、機械が数えてもおらん三頭であった。
あとで気がついた。勝った九番も、二着の二番も、三着の十番も、売れすぎておって、機械の見る範囲の下に落ちておったのである。機械は人気薄しか数えん。数えておらん馬は、来るか来んかの判定すら受けておらん。だから来ても機械は驚かんのである。驚いたのはわしだけであった。
帰りにスーパーへ寄ったら、ワゴンに贈答用の発泡酒が積んであった。今月までの日付と、それらしい値が付いておった。渡す相手もおらんが、まあこれも縁であろうと、一箱提げて帰った。
一口飲んだ。ぬるい。当然である。買ってきたばかりなのだから、ぬるいに決まっておる。しかし、ぬるいものはぬるいのであって、理屈で冷えるものではない。
そこでわしは冷蔵庫を開け、水道水百パーセントでできた氷を、三つ、いや四つ、ぶち込んだ。泡が一斉に逃げていった。ついでに、カルキのにおいがわずかに立ちのぼった気がした。
気がしただけかもしれん。たぶん気のせいである。が、いったんそう思うと、もう駄目である。
生ビールは、勝った日のものである。今日は今日の飲み方をするほかない。
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鼻でできるだけ息をせず、口だけで、ちびちびと流し込みながら、水で倍にしたいつものカレーを肴に、わが兵の並びを、五着、六着、七着と、もういちど上から順に数えなおしたわしであった。


